月々の話(第3回、2001年7月掲載・2010年11月一部修正)

テーマ「生きる意味を考える」



1.非人間性を生んでしまう「愛のつながり」の欠乏

 最近の次々に起こる凶悪な事件の新聞記事や報道に接して、胸の痛みを覚えない者は一人だにいないと思いますが、ごく最近、またもや身の毛のよだつような、もうこの世のものとは思えない残酷極まりない殺人事件が大阪で起こってしまいました。この犯罪者についてのくわしい事はまだ報道されていないので、私など安っぽく断定的なことは申せませんが、痛切に感じるのは、親からも誰からもまことの愛のコーリングを受けず、「あなたは私の者」というまなざしも、「私の家族よ」という抱擁も受けず、したがって動物的な関係以上の「愛のつながり」が持てないまま育ってしまい、三十歳以上になってもまだ微弱な人間性の磁気さえ帯びていないあわれな人間の姿が、そこにあるように思えてならないのです。
この事件だけとは限りません。「愛のつながり」のなさ、すなわち断絶のあるところにはかならず非人間を生んでしまうということを、自分たちの身近な問題として考えていきたいのです。親子の断絶、師弟の断絶、夫婦の断絶、このように断絶が限りなく起こっている現代は、明らかに非人間性の時代です。ほんとうに深い痛みと悔恨をおぼえるばかりです。

『わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない』(ヨハネ15章4節)

私たち人間同志の断絶の源は、上の御言葉が示して下さっているように、神との断絶にほかなりません。断絶の源は、思想のちがい、趣味のちがいなどではなく、神との断絶なのです。神との断絶の当然の結果としての愛のなさが、お互いの断絶をもたらすのです。
親子関係とならんで師弟関係もまた、神と人間の関係なのです。教え子(教えの親子)という言葉がよくそれを表わしています。「神のみ言葉によらない教師の教えは実ることはない」という言葉を、私は時々思い出しては自らの愛の欠乏を振り返ることにしているのですが、神とのつながりを持たない教師、すなわち神からの愛をいただかない教師が「愛の教育」を子どもたちにすることは、まず不可能だと言えるのではないでしょうか。 私の四十数年の経験から確信をもって言えることは、私のような愛の乏しい教師であっても、神とつながっている限りは、子どもたちは決して大きく道をふみはずすことはないということです。それは、私が楽しい音楽指導をするとか、作品を作って与えるとかいうことではなく、もっと深い問題なのです。「つながっている」こと自体が彼らを支えるのです。
「つながり、つなぐ」こと自体はもちろん、学問的知識を与えたり芸術的技能を与えたりはしません。けれども、「つながり」は人間性そのものである愛をその人に帯びさせます。帯びた愛は、私たちの知性をも感情をも意志をも、愛の基材とすることによって純化し聖化します。親子関係も、師弟の関係も、「つながり」の回復、それこそ現在の緊急課題です。それは私たち一人ひとりが磁気を帯びさせられることによってのみ解決されます。しかしその磁気は、私たちの意志や努力によって作り出すことは出来ません。私たちが神につながることによって神より与えられるものです。背き去った人間をふたたびつなぎとめようとされる神の愛にすがることのみが唯一の問題解決の道なのです。(「聖書と教育」松本 昭著から一部引用)



2.自信に欠ける弟子たちを絶えず励まし続けた主イエス

 聖書に「気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい」(Ⅰテサロニケ5章14節)とあります。
主イエスは、ややもすると自信に欠ける弟子たちや、どうしようもなく問題を抱える弟子たちを、どんな場・どんな時にでも愛をもって励まし続けられました。この継続した励ましが、彼らの伸び盛りの才能の芽にとっては水となり肥料となったのです。こうして小さな芽はすくすく育ち、大木に成長したのでした。イエスの訓練を受けた彼らは、死さえも恐れず、福音を伝える信仰の勇者へと大変身を遂げたのです。
私たちは果たして、教え子や同僚に対して、また家族の者に対して、愛をもって彼らを励まし続けているのでしょうか。ちょっとした欠点や失敗を見つめる眼差しの方が多く「ダメなやつだ」などとラク印を押して諦めたり、見捨ててしまったりしてはいないでしょうか。

私が玉川大学の「保育表現の研究」の講義を受け持っていた時、受講生たちに毎年、「今までで一番心に残った教師とその出会い」というテーマでレポートを書いてもらっていました。幼稚園の時の先生から大学の時の教授に至るまで、それぞれに出会いの時の違いはありますけれども、どのレポートからも、その根底に「ほめられて教科が好きになった」「励まされて勇気を持つようになった」という共通点があるということを知らされました。
お一人のレポートから引用(了解済み)させてもらいます。

 いまでも度々思い出す先生がいる。小学校6年生の時の担任のT先生である。先生は性格も明るく快活で、よく私たちを笑わせてくれた。帰りの会が終わって、みんなが教室を出る時には出口の所に立って、“さようなら”“きょうは○○がよかったよ”“風邪、もうだいじょうぶ?”と握手をしながら笑顔で声をかけてくれた。ほかにもとても嬉しかった思い出がある。彼は私たちをよく誉めてくれた。私は“国語の本読みがとても上手だ”と誉められた。本読みをするたびに、T先生は“うん、ここのところをこういうふうに読むところがいいねえ”と感心してくれた。私は嬉しくて、いっそう上手に読めるように頑張り、また自信を持つようになった。また「帰りの会」の時に誉められたことを覚えている。私が掃除の時間に、教室の隅のボール棚のうしろまで掃除していたのを見つけて、“島村さんは、こんなところまで汚れているのに気づいて掃除してくれたんですよ。さすがですねえ”というふうに、みんなの前で誉めてくれたのだ。そのように、一人ひとりの良いところを発見して、みんなの前で大げさなくらい誉めてくれる先生だった。
 その先生に、卒業から八年後の同窓会でお会いした。その時T先生は、“6年生の3月の時に『みんながこの一年間でいちばん嬉しかったことは?』を言ってもらったことがあってね。その時、島村さんは『t先生に本読みを誉められたことです』って言ったんだよね。僕はそれを聞いて、ちょっと誉めただけのことが、生徒にはこんなにも大きな影響を与えるのかって、正直いってびっくりしたんだよ”と言われた。先生にとっては大したことを言ったつもりではなくても、先生の言う誉め言葉の威力は大きい。
そしてもちろん、その反対もしかりである。 (島村 紀代子さん)

 最近「人生で大事なことは聖書がすべて教えてくれる」(生田 哲著)という題の本を書店で見つけて購入し、読んでみました。その中にやはり同じく「リーダーはよい仕事をした人を褒めるべきである」という見出しの文に出会いました。

 『デパートなどの小売り業の従業員を対象にした「働く理由」についてのアンケート調査がアメリカで行われた。重要度の一番にあげられたのは、自分の仕事をだれかに認めてもらうことであった。二番目は人々から「尊敬」されること。そしてようやく三番目に「お金」が来た。この結果は読者には意外に聞こえるかもしれない。人はお金を獲得するために働く、と思われがちであるからだ。もちろん、お金は、衣・食・住という、人が生物として生き続けるために欠かすことができない条件を満たすための道具である。だが、この生物学的な欲求が満たされたとき、金はもはや人が働くための強い動機にはならない。このことは生活にゆとりのある先進諸国でとりわけ顕著である。すなわち、人々は、給料さえもらえれば、どんな職業でもかまわないなどとは決して思っていないのである。自分の仕事をだれかに認めてもらうにしても、人々から尊敬されるにしても、要するに、人は他人に褒められたいがために働くのである……。実例を挙げよう。
登場人物はいずれも仮名である。
証券会社で新商品の企画を担当している順子は、給料のよさと、仕事にやりがいを感じていた。だから、企画の締切日に間に合わせるために、夜おそくまで仕事をして寝不足の日々が続いても、さほど辛いと感じなかった。仕事そのものには満足していた順子だったが、上司の鈴木に対して不満を抱いていた。どんな不満かというと、彼女が徹夜で仕上げた仕事への論評がまったく得られなかったことである。こんなことは一度や二度ではなく、毎度のことであった。自分の仕事への上司の評価が欲しかったが、それが得られないことが原因で、彼女の不満はだんだん蓄積していった。そして爆発寸前の状態。
ある日、彼女はこのことを鈴木の大学時代の友人で別業界で活躍する佐藤に打ち明けた。話を聞いた佐藤は、鈴木から褒められることを期待しても無駄であると彼女に告げた。そのわけはこうである。鈴木は、中学・高校・大学とスポーツは抜群、その後、IT(情報技術)ブームの波に乗って会社を設立し、若くして資産を築いたエリートである。ところが、運動神経が抜群で、頭脳も明晰な鈴木は、意外にも、彼の父親に褒めてもらった経験が一度もないという。自分が父親から褒められた経験のない鈴木は、みずからも他人を褒めないひとになっていたのである。さて、佐藤から順子へのアドバイスは、「だから自分で自分の仕事の善し悪しを評価するしかない」であった。この説明を聞いた彼女は、鈴木を少しだけ理解した気になったが、それでも不満は解消しなかった。
このような状況に置かれた人の行動は、二つのタイプに分かれる。一つめは、評価されない、褒められないことに腹を立て、投げやりな気持ちになって、仕事に全力を尽くさずにお茶をにごすタイプ。二つめは、たとえ上司から誉められなくても、創世記29章〜30章に記されているヤコブと同じように、与えられた仕事に全力で取り組むタイプ。順子は二つめのタイプのひとであった。ある夜のこと、たまたま順子は業界仲間たちのパーテイに招待された。パーテイ会場の片隅にすわった彼女は、持参したプレゼンテーション用のOHPを出席者に見せながら説明していた。このパーテイに出席していた他社の男性が、彼女の仕事への熱意と能力を高く評価し、その場で彼女の引き抜き工作を始めたではないか。その男性こそ、鈴木のライバル会社がアメリカ本社から派遣した日本支社長であった。パーテイから一ヶ月後、順子はライバル会社に移籍した。彼女は自分の仕事を正当に認めてくれる上司に巡り合い、仕事への満足感と達成感を味わえるばかりか、彼女の願わなかった昇進・昇給まで手に入れた。いっぽう、ビジネスの大きな戦力を失った鈴木は、自分が重大な過ちを犯したことに気づいたが、あとの祭りであった。』

 これに類したことは、学校現場でも大いに考えられることです。自分が担任していた時には「問題児」としか思えなかった子どもが、進級して担任が変わったとたん、素晴らしい才能を発揮したりして変わることがあるのです。「たまたま、自分とあの子とは相性がよくなかったからだ」の言い訳では済まされない何物かがあるのだと思います。

「誉めて励ます」ことの大切さを歌った河野 進さんの詩四編を紹介します。

『落し物』

こどものかわいいしぐさが

ふと目にとまった

ほめようか

こんなことぐらい 一瞬ためらった

こどもはもう見えなかった

惜しい落し物をした

どちらにも


『口ぐせ』

きみ

天国を知っているかね 知りません

人をほめるところだ

地獄を知っているかね

知りません

人の悪口を言うところだ

賀川豊彦の口ぐせであった


『逃げる』

どんなに手に負えぬ いたずらっ子でも

ふとやさしいことを 言ったりしたりする

見逃さず ほめてほめて

きまり悪がって 逃げ出すまで


『一人』

九十九人を慰め喜ばすなら 屋上から大声でふれまわれ

一人でも傷つき悲しむなら 部屋の片隅でもささやくな



3.何をよりどころにして教育に携わるか

 私は、講義を受けてくれている受講生に対して、もう一つのレポート課題「自分が教育をする側(教師や親)に立った時、どのように人としての生きる価値観を子どもに伝えますか」を提示して、書いてもらっています。中には「いままで考えたこともなかったので、これを機会に考えてみます」というびっくりさせられるレポートもあるのですが、やはり信仰を持って、神さまとつながっておられる人の文章はずっしりと深く、読んでいて嬉しくなってくるのです。
その中の一つを取り上げさせてもらいます。

『幼稚園で働かせて頂いております。不足の多い私が、子どもたちの前に立ち、時にはご父母のまとめ役を仰せつかるなどといったことは、仕事とは言えども、よくよく考えると大任であると痛感しております。とはいえ、子どもたちとの毎日は楽しいし、やればやるだけのことが自身に返ってきて夢中になれる積み重ねの中で、私がやってあげている、という傲慢さが、同時に大きくなっていたようにも思います。私の毛穴から、私の本質を呼吸するがごとく在る子どもたちから、私もまた私の傲慢さを映し出され、気づかされ、子どもたち同様に、私も神さまに導かれている一人であることを、子どもたちとの毎日からじわじわと感じ、教えられて来たように思われます。経験と傲慢さがふくらみながらも、いま思えば赦されて来たのは、職場がキリスト教付属の幼稚園であり、その理念から、障害を負った子どもたちを受け入れ、投合教育を早くから実践してきた場であり、障害を負う子どもや弱い子どもを保育の中心に、保育を考える時の原点にするといった思想に、私も捉えられていったからかもしれません。保育現場で実践していく中で、自分が感じたり考えたりしてきた事は、二千年来伝えられてきたことの中にあり、それもことごとく一部であること、現場で詰まった時に、何にその指針を尋ねるかという時、数ある保育書ではなく、牧師・園長から聞く聖書の言葉であったことを思う時、振りかえって赦され、恵まれて在ることを感謝せずにはおられません。
どのように「人としての生きる価値観」を子どもに伝えますか、と問われれば、障害を負う子どもや、弱い子どもを常に皆の中心に据えられるように、そうした中で出てくる問題を受けていく時こそ、伝える時一人よがりだったり、傲慢な、間違った価値観ではない真の人としての生きる価値観を神から聞き、子どもたちに手渡すことが出来るように、これからも祈っていきたいです。』 (佐藤三枝子さん)



4.主につながったこんな「顔」の大人でありたい

河野 進さんの「顔」という題の詩があります。ほんとうにこんな「顔」の大人でありたいと願うばかりです。

『顔』

主イエスさま

おさなごが両手をひろげて 走ってくる顔にしてください

おさなごがほほえみながら 抱きつく顔にしてください

おさなごが喜びの声をあげる 顔にしてください

おさなごがつかまえて離さない 顔にしてください

どの一つでも結構です



(文責:小宮路 敏)