月々の話(第2回、2001年6月掲載・2010年11月一部修正)

テーマ「生きる意味を考える」



1.いつも自分側でなく相手が変わって欲しいと願っている

 よく、「聖書の行間を読む」という言葉を耳にします。一見、この箇所は理解出来ると思って読んでおり、また何の困難も感じなくあっさりと読み過ごしてしまいそうな聖書の箇所、行間に、ほんとうはもっとすばらしいメッセージが、まるで宝物でも隠されているようにして秘められているのだというのです。つまり、無言の行間にこそ限りない聖書の深みが隠されているということなのです。私どもの実生活の中でいろいろな形で出会う不思議な「神の沈黙」についても、同じことが言えるのかも知れません。
 これと同じようなことを、私は「ピーナッツ」のマンガを通して、いつも何かを強く受け取っております。たった四コマほどの少ないマンガながら、ああ、こんなメッセージだったのかと感じた時ほど嬉しく興奮することはありません。(案外、作者のシュルツさんは「そんなつもりで描いたのではないよ」と天国で苦笑しているかも知れませんが)
 最近また、二、三個のマンガから大きな収穫がありました。そのひとつは、上が大きい玉で下が小さい玉の逆さまの雪だるまを作っていた男の子に対して、通りがかりの女の子が「その雪だるまおかしいわよ!逆さまじゃない?」とちょっかいを出して去って行ったあと、スヌーピーがやってきて、自分もその逆さま雪だるまと同じように逆さまになり、「ちょっと変わってるね」とつぶやきながら眺めるのです。私はこのマンガから、「人間関係の妙」を受け取ったのでした。人と人との間に起こる問題のほとんどが、この「逆さまの雪だるまへの見方」と同じみたいで、誰もが相手を変えようとすることから起こっているといえるような気がします。私たちはすぐに、「あなたは間違ってるよ……?」「きみがもっと……変わるべきだったんだ‼」などといいます。私たちは本能的にあるいは衝動的に、日常生活の中にある自分の問題を、人を変えることによって解決できると思い込んでいるようです。それで何か問題が起きるたびごとに、「あいつが、もうちょっと気をつけてくれたら良かったのに」「彼が心を入れ替えて謝ればすむことなんだよ。それで解決するんだが」「あいつに思いやりってものがあったら、もうちょっとは何とかなったのに」「どうしたら彼をやる気にさせることができるだろうか」とぼやきが続きます。私たちの目指すところはいつも、ただひたすら、相手の人間を変えようということです。仕事の場で、家庭で、学校で、私たちは何年間、いや何カ月、人を変えよう相手に変わってもらおうと努力し、知恵のかぎりをつくしてきたことでしょうか。その結果、たまには感謝したふりをされたこともありました。人を変えようとすれば嫌われるのが落ちです。赤ん坊でさえ何かをするように強いられるのをいやがることを知らなければなりません。このことに関連した的確な文がありますので、引用したいと思います。(「愛せない悩みに」という題で書かれた古川第一郎氏の文です)

 『「愛」と「愛と似たもの」の違いは何でしょうか。それは二つあります。第一は「変わること」、第二は「変えること」です。
 第一に、「愛」は変わりませんが、「愛に似たもの(愛モドキ)」は変わってしまいます。パスカルは、「私はきのう愛した女性をもう愛さない」と“パンセ”の中で言っています。これは「愛」がなくなったのではなくて「愛モドキ」だったのです。遠藤周作氏のことばで言うと「情熱」だったのです。これを「愛」と信じた結果、傷つく人が多いのです。
 「愛」は相手をその姿のままで受け入れますが、「愛モドキ」は相手を変えようとします。もっと自分の理想に合うように、いろいろな手段で相手を変えたくなるのです。カウンセリングを受ける多くの人が、「私、いまの主人には我慢できません」と言います。「主人が変わらない限り、別れるしかありません」と言います。もちろんその反対の場合もあります。さらに職場の上司や同僚、姑と嫁の関係など、いろいろです。解決出来ずに心が疲れ切っている人、いやな人がいるとそこから逃げて職場を転々とする人、その心はなんと傷ついていることでしょう。その人々の共通した特徴は、問題の解決の鍵を相手に渡してしまっていることです。「あの人が変わらないなら、解決の希望がない」ということです。つまり、相手が解決の先手を打ってくれないと希望がない、ということなのです。
 ここで、「愛せない」とは何ができないことなのか、ということがおわかりでしょうか。「愛せない」……この表現は切実ですが、何となくぼんやりしています。別のことばに置き換えてみると、何かに気づくことができるかもしれません。「愛せない」とは、「相手に支配されてしまう」ことであり、もっと砕いて言えば、「相手のことばや態度に振り回されてしまう」ということなのです。聖書に、愛は「怒らず、人のした善を思わず」(Іコリント13章5)と書かれています。これは当然、だれかがとても不愉快なことをしたり、自分が頼んだことをしてくれなかったり、とにかく人からマイナスの態度を向けられた時にも、「怒らず、人のした悪を思わない」ということでしょう。つまり、相手のことばや行動に振り回されないことです。もっとはっきり言えば、自分の心の問題を、相手を変えることなしに解決できるということなのです。さらにはっきり言うと、相手をありのままで受け入れることができるということなのです。これが「愛」なのです。
 反対に、「愛せない」ということは、相手の言動から自由になれない、ということです。夫が自分の理想にはまってくれるかどうか、妻が自分の期待どおりにしてくれるかどうか、それに自分のしあわせが振り回されているのです。依存しているのです。「愛したい」のに、その願いはあっても、自分の中に「相手しだいの私」という自己中心性があるので、愛せないのです。「……ですから、この私は、心では神の律法に仕え(愛したいと願っていますが)、肉では罪の律法(自己中心、相手次第)に仕えているのです」(ローマ7章25節)』



2.「相手次第の私」か「自分次第の私」か?

 「ピーナッツ」のもう一つのマンガから、「人間関係」についての行間を読んでみたいと思います。そのマンガは、女の子ルーシーが男の子チャーリーに向かって、「きょう、みんなを招待してパーテイーをやるの!あなたを除いてね!」と意地悪な発言をします。それに対してチャーリーは「ぼく、何とも思わないからいいよ!」と答えて別れた後、「腹が立ったのに心にもないことを言っちゃった!」と後悔するのです。
私たちだって、このような仕打ちを受けたとしたら心穏やかではありません。
以後ルーシーに対して憎しみさえ持つことと思います。このようになぜ、私たちは人の言動によって振り回されて、上がったり下がったりしてしまうのでしょうか。ふたたび古川第一郎先生の言葉を借りて考えてみたいと思います。

 『それは、自分が自分をしっかり愛していないからなのです。「自立」というのは、「だれも私を愛してくれなくても、私はどこまでも自分を愛します」という姿勢のことです。「自分を愛する」とは、自分が自分の人生の責任者になることです。人生を航海にたとえるなら、自分で自分の船の船長になることです。そういう人は、人からひどいことをされた時には、自分を抱きしめ、自分を慰め、自分の心がラクになるようにしてあげます。しかし、自分という船の船長になっていない人は、他の人に自分の人生の責任をとってほしいと思っていますから、人の言葉で傷つきます。そして、「アンタのおかげで傷ついたんだ!どうしてくれる?」と言うのです。そして、自分をラクにする努力をする代わりに、そのいやな気持ちを持ち続けて、人を責め続けます。だから、いつまでも心が癒されず、怒りや恨みを持ち続けるのです。

 主イエスさまは「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)と言われました。「そんな聖人にはなれないから、その教えは私と関係ない!」と言って敬遠する人もいます。』しかし、これは「聖人」になるための教えではなく、ほんとうの意味の「自立」の教えなのです。「あなたの心を、人に支配させてはいけません。人があなたをほめれば喜び、批判すれば憎む。これでは人の奴隷です。むしろ、相手がほめてくれようが、批難しようが、あなたの心はあなたの責任で選ぶのです。あなたには、あなたを愛してくれる人を愛するだけでなく、あなたを迫害する人のために祈ることもできるのです。その力は、私が与えたのです。あなたがあなた自身を愛しているなら、人のことばや態度から自由になれるはずです」。こう言っておられるのです。



3.幸福な人間関係であるためには?

 「人間」という字は、「人の間」と書きますが、人間の生活は、人と人とのかかわりあいだと言えるでしょう。だから、幸福な生活を送るためには、どうしても幸福な人間関係がなくてはなりません。家庭と職場(あるいは学校)は、私たちの人間関係の二つの大きな場ですが、特に職場(学校)での人間関係について考えてみたいと思います。
 アメリカの、大学卒業者で、しかも転々と職場を変える人の例を三百六十も集めてその心理を研究した学者がいますが、いずれのケースも、職場での人間関係の失敗者だったということです。失敗者とはいかないまでも、人間関係がうまくいかないために、職場をきょうやめようかあす変わろうかと考えている人は案外たくさんおられるのではないでしょうか。私も例外ではありません。ではどうしたら、職場の人間関係を幸福にしていくことが出来るのでしょうか。
 ある実在の人の体験談を借りて、学ばせてもらいます。

『私の職場に、部下で、私に絶対にあいさつをしない人がいました。朝など私の顔を見るとプイと横を向いてしまうのです。私はクリスチャンでしたが、やはりシャクでたまりませんでした。どうも高慢なやつだと考えていました。
 ところが、ある時ふと、キリストのことを思い出したのです。神に対してかって私は罪びとでありながらまことに傍若無人、神を神とも思わない者でした。ところが、イエス・キリストは、このような私を愛し、このような私に仕えるために、しもべとなって、この世に来られ、私の足を洗い、ついに私の罪の身代わりに私のために十字架についてくださった。「私はそのおかげで救われた。それなのに「私は上役だ、彼は私の部下だから、彼は私におじぎをしなければならない」。私のこんな考えが、ほんとうに恥ずかしくなりました。「私が上役だ」、「私が目上だ」ということよりも、「私が彼に奉仕するべきだ」とわかった時、私は彼よりも早く「おはようございます」とあいさつし、どんな小さなことでも彼にしてもらった時「ありがとう」と言うようになりました。するとどうでしょう。彼のほうも変わってきました。そして、私も彼が決していやな人間ではないことがわかってきたのです。まさに聖書のみ言葉“あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価とし、自分のいのちを与えるためであるのと同じです”(マタイ20章25〜28節)だったのでした。
 これは立場を反対にしても同じことが言えましょう。頑固でわがままな上役のために働くと思えば腹も立ちます。しかし神に仕えているしもべであると思えば喜びです』

 そうです。私たちの人間関係の秘訣は、キリストのように、神とすべての人に奉仕するしもべとなるところにあるのです。



4.子どもでも立派な一人格者としてみる

 また「ピーナッツ」の中の、次の対話のマンガから学びたいと思います。

ブラウン「子犬園からだよ……。スヌーピー、きみあてだよ。“貴殿におかれましては”で始まってる」

スヌーピー(踊りまくって)「“貴殿”?彼らはボクを“貴殿”って呼んだ!ボクを“貴殿”って呼んだ!“貴殿”って呼んだ!“貴殿”って呼んだ!」

ブラウン「これじゃいつまでたっても読めないや」

 これは、スヌーピーの立場を子どもに置き換えてみたらいいと思いました。すなわち、スヌーピーを立派な一人の人格者として認め、「貴殿」という言葉を使った手紙を書いたことです。イエス・キリストは幼い子どもに高い評価を与えておられます。ところがあの弟子たちと同じように私たち大人は、案外心のどこかで子どもを軽視し、言葉は悪いのですが、なめていることがあるのではないでしょうか。それがもし教師だったとしたら、その教師は、神が子どもに声をかけておられることがわからずに、ただ自分の得た知識を切り売りするだけの教師にとどまっていると思うのです。野田秀先生という方が、ある人から聞いた話を書かれていました。

 「その人がイギリスに旅した時、電車に乗った時のことです。小さい男の子が座っていたところに、老婦人が乗って来ました。するとその子の母親が“あなたはジェントルマンでしょう”と言ったそうです。男の子はすぐに立ち上がって、席をゆずりました。老婦人がにっこりして座りながら、その子に返した言葉は“サンキュー、サー”であったというのです。」

 この出来事の中で、この子どもは、母親からも、また初めて会ったお年寄りからも、紳士として扱われたのです。そこには「子どものくせに」とか「まだ小さいのだから」という、軽視と甘やかしの間違いを見ることは出来ません。

 私が小学部で五年生の担任をした時、毎日のように子どもたちは自由ノートに、日記の類のものを書いて見せてくれていたのですが、男子の次の文がとても印象に残っております。

「僕は良い床屋さんを知っています。相武台前駅のほうからグリンパークのほうに入った所にある床屋さんで、とてもサービスが旺盛で、見習わなければならないところのある人です。よく話す人なのですが(普通の床屋さんでは話をすると、話に気をとられてヘマをしたりしますが)ヘマなんか全然しないのです。それにこんなことをやっているのは、このモトキという床屋さんしかないでしょう、と思ったのは、お茶を出して下さることと、子どもでも大人と同じように洗髪して下さることです。今月からは新築した立派なお店になりました。そして僕が遠くから来てくれると言って喜んでくれます。僕が大人になったら、沢山お客さんを連れて行こうと思っています。」

 私たち大人は、自分の前にいる子どもたちをどのような目で見ているかということは非常に重要なことです。子どもが、
◇人格をもった一人のたましいであり、
◇神に愛され、神が声をかけておられる存在であり、
*日々に育ちつつあるものである
ことをわすれてはならないのです。

『あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい』(マタイ18章10節)

 だから、私たちはどんなに忙しくても、子どもがどんなに小さくても、子どもたちといっしょにいることを喜ぶことが出来るようになりたいものです。自分の都合を中心に考えないで、子どもと共に遊ぶ、子どもと話す、子どもと共に物を作る、子どもと共に聖書を読む、子どもと共に祈る大人でありたいです。主にあって子どもを育てるには、忍耐と知恵と努力が必要なわけです。

  『いつでも』 河野 進

   いつでも こどもに

   呼びかけられたい  ほほえみかけられたい  追いかけられたい

   飛びつかれたい   抱きかかえたい   お祈りをせがまれたい

   いっしょに両手を合わせたい



(文責:小宮路 敏)