月々の話(第1回・2001年4月例会より、2001年5月掲載・2010年11月一部修正)


1.九十九匹か一匹か

  東京の牧心塾長・将司兄の計らいで、2月25日、町田の常盤町でハンドベルの演奏をすることが出来ました。その演奏の合間に、絵本パネル「きみのかわりはどこにもいない」(メロデイ・カールソン作)の朗読を、ひろみさんの素敵なピアノ演奏のバックアップのもと、塾友・育子さんがして下さいました。私の退官記念・音楽の集い(2月11日)の時の同じ絵本を使っての伊子さんの朗読といい、お二人の心からほとばしる素晴らしいメッセージに誰もが感動を受けたのでしたが、この絵本物語の大元はというと、マタイ伝18章「迷い出た羊」から出ていることは言うまでもありません。話の内容は簡単です。この羊飼いが、迷い出た羊の?たった一匹でも徹底的に捜し出して喜ぶというのです。私が小学部に在籍中これを子どもたちに話して聞かせたことがありましたが、子どもたちの中から「一匹を捜している間に九十九匹が逃げたらどうするのか、だから一匹ぐらいはあきらめたらどうか」と言った意見が出たことがあります。

 小笠原亮一氏の『ある被差別部落にて』(日本基督教団出版局)という本の中に、次のような場面が描かれています。
 ある高校の三十一人の生徒を持つ担任教師が、問題を抱えて登校しない一人の生徒のために一生懸命になり、他の生徒を教室に残してしばしばその生徒を捜しに行くのです。その時、PTAのお母さんたちがやって来て担任教師に抗議して言います。「一人の生徒のために、そんなに時間を割いていると、私たちの息子の勉強が遅れてしまいます。先生はクラスの三十人が大切なのですか、それとも一人が大切なのですか?」と。その先生は、「三十一人が大切です」と答えたといいます。先生は三十人を無視して一人の生徒を追っかけているのではなく、先生にとって全部の生徒が大切なのです。

 ここでは、九十九匹と一匹との価値の比較ではなく、たとえ一匹であろうと見捨てることが出来ない羊飼いの愛の切実さを語っているのです。
 これに関連してすぐ思い出すのが、いつかこの「牧心塾」でお話しさせてもらった『映画づくりと人間教育』と題して語った山田洋次監督の言葉です。もう一度復習してみたいと思います。

 1960年代から70年代にかけて、能率主義という言葉が産業界を中心に唱えられ出しました。映画の世界にも当然この考えが持ち込まれ、少数精鋭主義という言葉が流行しました。少数でもいい、精鋭がいれば映画はできる、という考えでもあったのです。いままでのスタッフ編成はあまりにも無駄が多過ぎた、従来五十人でやって来たとすれば、よく働く優秀なスタッフなら二十五人でよい、そうすれば映画はもっと経済的に安くつくれるというわけです。
 事実、その頃から映画のスタッフはどんどん少なくなってきました。人数を減らすとなれば、当然、よく働かない人、つまり会社的な見地からいって成績の悪い方の人から整理されていきます。しかし、そのことによって、次々とつくられ続けて来た日本映画は、芸術作品であれ娯楽作品であれ、全体としてだんだん面白くなくなっていきました。映画の面白さとはなにかというのはむずかしい問題で、言葉ではうまく説明しにくいのですが、たとえば楽しい喜劇といわれるもの、観客の心にいつまでも残るといった名作ではないけど、見ている間は楽しくてならないような映画がかってはたくさんつくられたものです。そして、こういう種類の楽しさを生み出すためには、チームに一見無駄に見えるような人間を平気で何人も抱えているようなゆとりがなくてはならないように思います。あるいは、そういう人間を自分のチームに抱えられるだけの心の広さがないといけないということかもしれません。映画界には、昔は奇人・変人がたくさんいました。今にして思うと、人を楽しませる映画をつくるためには、スタッフの中に変人・奇人がいなければいけなかったんだとぼくは思います。そういう人を仲間として抱えて、みんなで彼を笑ったり、愛したりするというチームであってこそ、はじめて人を笑わせたり、楽しませたり、感動させたりする映画ができたということなのでしょう。
ましてや、ぼくたちのチームは「寅」という人間を主人公にしているわけです。「寅」というのはまさに落ちこぼれであり、変人・奇人です。役立たずです。その人間を描くぼくたちが、自分たちの集団からそういう人間を排除するわけにはとてもいかないわけです。ぼくたちが働く気のない人間とか、遊んでばかりいる人間とか、サボるのが大好きな人間とか、そういうどうしようもない人間をチームに引き入れて、そいつのシリをひっぱたいたり、そいつをめぐって、みんなが喧嘩をしたり、腹立てたり、「おまえ、もう帰れ」とわめいたりするトラブルをしょっちゅうもっているとすれば、それはぼくたちの集団が人間的であるということの証拠だろうと思うのです。それはちょうど「寅」をめぐって、「寅」の家族がいつも大騒ぎするようなものです。離れていれば、懐かしいのに、顔を見ると憎らしくなる、というのが寅であり、その寅をめぐってのようなトラブルが、ぼくたちのチームの中にも必要なのです。断固として。



2.欠点を直す要求よりも長所の受容を

まずいつものように、ピーナッツのマンガの一つを取り上げてみましょう。

(午前中の授業も終りお昼になったので、庭のベンチでライナスがお母さんの作ってくれたお弁当を開こうとしています。ところが、お弁当に添えたお母さんからの手紙が出てきました。ライナスは声を出してその手紙を読み始めます。)

 「愛する息子へ 今日あなたのために作ったお弁当をたのしんで食べ、感謝してくれたらいいと思っています。」
「午前中はどうでしたか?私が言ったように、クラスでは自分から手をあげましたか?先生は自分からすすんで手をあげる生徒をいつも評価するものです…。それが成績をよりよくする確実な方法なのです。」
「よく覚えておきましょう、よい成績をとることが、よい大学への近道です…、ニンジンを食べましたか?ちゃんと栄養をとることは、勉学には欠かせないものなのですよ。」
「日光浴はしていますか?ぜひそうしなさい。度を越さないぐらいの日光浴は身体によいのです。いまの時期なら一日10分ぐらいが適当でしょう。」

(チャーリー・ブラウンがやってきて)「ヘーイ、ライナス。弁当に何持ってきた?」と尋ねます。するとライナスは「ニンジン、ピーナッツバター、それに罪悪感さ。」と答えるのです。

 私たち教師として、また親として、何とこの母親と同じような教訓めいたことを子どもたちにして、罪悪感を覚えさせていることかと身につまされる思いでした。

 たまたま最近、読売新聞の「教育相談」の欄で、とっても素晴らしい回答者の回答文を見つけたので引用します。

【相談】 「ルーズな娘  相談にのってくれない夫」

◆中2の長女は、生活態度についてしばしば学校から注意を受けています。髪を染め、まゆをそり、薄化粧をしており、責任感が希薄です。ちょっと悪口を言われたからと言っては学校を休みます。小学生の妹が持病の発作をおこして具合が悪そうにしているときに、ひざに乗ってふざけたりします。万引きしたこともあります。金遣いが荒く、ある用件に、大きなお札を持たせると、全額を使い切ってきます。その他こまかいことをいうときりがありません。中学生になるまでは、勉強や習い事を強制したことはありません。マナーだけはしっかりして欲しいと思って少しはうるさく言いましたが、結局何も身につかないまま今日にいたっています。何がよくなかったのでしょうか。手にあまり、夫に相談すると、たちまち不機嫌になり、「お前は悪口ばっかり言う」と席を立ってしまうのです。それどころか現状をよく知ろうとせずに、わたしの批判に終始するのでストレスがたまるばかりです。「お前がこうしたんだ」と言われたこともあります。万引きのときも一言いって欲しいと頼んだのに、なかなか言ってくれません。何度も催促すると、「タイミングをはかってるんじゃないか。ギャアギャア言ったってだめなんだよ」とどなられました。夫は3年ほど前から単身赴任しています。赴任先では食事も風呂もつき、冷暖房完備なので特に不自由はしていないようです。3週間に一度の割で帰ってきます。娘の成績表を見るときはあまりのひどさに顔をしかめるのですが、娘には何も言いません。とにかく面倒なことを避けて回り、真っ向から対するということをしません。(京都府、主婦・41歳)

【回答】(東京インターナショナルスクール代表・坪谷 郁子先生)

◆あなたも、娘さんもご主人も幸せになれる方法は、あなたがあるがままの娘さん、ご主人を認め、愛し、信じ、いつくしみ、肯定することです。あなたはあなたなりに一生懸命やっているのでしょうし、きっととても頭の回転の早い、しっかり者なのだと思います。だったら思い切って、あなたのその能力を娘さんやご主人を褒めることに費やしてみてください。髪を染め、まゆをそり、薄化粧しているなら、「ファッションセンスあるね。お母さんにも今はやりの化粧をしてみてよ」と。口答えしたら、「自分の意見がはっきり言える子に育ってお母さんもひと安心だ」と言ってやって下さい。妹のひざの上飛び跳ねていたら、「お母さんの上で飛び跳ねて一緒に遊ぼうよ」と。大切なのは、「お母さんはおまえが生まれてきてくれて本当に幸せ」と繰り返し言うことです。娘さんにひとつでも長所を見つけ、それをうんと褒めてください。娘さんの前では、ご主人のことも正しく評価して褒めてください。「お父さんは働き者だから、会社でも食事も冷暖房も揃っているようないい待遇にしてくれているんだね。きちんと三週間に一度お父さんが帰ってきてくれるから、我が家もけじめがついていいね」と言ってみてください。ご主人にも  「お母さんがしっかり家を守っていてくれるから、安心して働けるよ」と娘さんの前で、あなたを評価するように言って欲しいと頼んでください。とにかく、娘さん・ご主人を褒めて褒めて、「おまえが生まれてきてお母さんは本当に幸せ。あなたと一緒になれてわたしは本当に幸せだ」と半年間言い続けてみてください。きっと、相手が変わってくるはずです。「お母さん、今日は疲れているから10分でいいから手をつないでいてくれる?」とスキンシップを取ってみてください。お弁当箱の中に「あなたはお母さんの宝物よ」とメモを入れてみてください。ご主人が帰る荷物の中に、「私たち家族にとってあなたは本当に必要な人なのよ」と短い手紙を添えてみてください。あなたも娘さんも、ご主人もこの宇宙に一人だけのかけがえのない人なのです。前向きに悔いのない清い人生を過ごそうではありませんか。あなたもまだ41歳。もっと魅力的な母、妻、女性、人間になっていけるのです。しかし、万引きなどの社会のルールに反する事、人に迷惑がかかることをした時は、威厳をもって叱らなければいけません。これだけは許せないという信念をもって接しなければいけません。「おまえは社会のルールに反することをした。二度としてはいけない。もし再びした場合には、お母さんはおまえと一緒に家を出て、頭を丸める覚悟だ」。そのくらい叱らなければいけません。あとはいつまでもガミガミ言わないことです。
 どうか私のアドバイスを半年続けてみてください。そして、何が、どう変わったか、その報告を楽しみにしています。最後に私事ですが、娘がある日、私にこう言いました。「ママ、わたしはママとパパに会うために生まれてきたんだね。」わたしは涙を流しながら、娘を抱きしめていました。

 この身の上相談を通して確認出来ることは、それが教師と生徒の関係であろうと、または親と子の関係であろうと、受容による人間関係こそうまくいくということです。いま頻繁に、子どもたちによる家庭内暴力や学校暴力が起こっています。その子どもたちが反抗する相手は、総じて大人に対してです。だから、家庭内暴力や学校暴力は大人と子どもの間の問題だということは明らかです。では子どもは大人の何に反抗するのでしょうか。

 アメリカの心理学者トマス・ゴードンは、子どもが反抗するのは親や教師が至るところで使っている破壊的なしつけの方法に対してであると分析しています。つまり、親や教師が子どもに耳を貸そうとしないために、多くの家庭で世代の断絶が生じているというのです。親や教師が子どもの行動を支配するのに、小さい時から権力に頼ってきた家庭では、突然、子どもが反抗し始め、親や教師の権威が失墜してしまいます。その結果、親や教師は大きなショックを受けるのです。

 聖書のヤコブ書1章19節に「愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである」とありますが、これは親や教師と子どもとのコミュニケーションのまず第一の原則だといえましょう。子どもは何も理由がないのに、好き好んで自分の親や教師に反抗したりはしません。子どもは大人そのものに反抗しているのではなく、大人の持つ権力に反逆しているのです。

 トマス・ゴードンは、大人が子どもをしつける手段として大人の権力を使い続けると、子どもの成長過程で次のような問題を生じると指摘しています。

1、抵抗、反抗、反逆、否定の態度を示す。
2、拒絶、怒り、敵意の感情を持つ。
3、攻撃、報復、仕返しの行動を取る。
4、嘘をつく、感情を隠す。これは大人の罰を逃れるためにする。
5、他者を非難する、告げ口をする。
6、支配的になる、威張る、弱い者いじめをする。大人が自分を扱うように 他者にする。
7、勝つことを望む、負けることを嫌う。
8、対抗するために同盟を結ぶ。大人たちに対抗して同世代の中まで帰属意 志を持つ。
9、従順、服従、同意の態度を示す。反抗は身の危険だと思って全く正反対の態度を示す。
10、へつらい、ご機嫌とりの行動を取る。
11、同調する。しかし、権力を恐れての同調なので創造性を欠いている。
12,  逃避、幻想、退行の行動を取る。この結果、心因性の病気になることもある。

以上のように、親や教師が「権力」という種を蒔くと、これらの深刻な問題を刈り取ることになるのです。では、親や教師はどのような方法で子どもをしつければいいのでしょうか。ペテロの第一の手紙5章2,3節に「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである」とあります。ここでは、子どものしつけ方を直接的には言及していませんが、牧師が信徒を指導する方法を親や教師も見習うことが出来ると思うのです。すなわち、牧師は信徒を教えるにあたっては権利をふるうのではなく、むしろ模範を示して教え導くべきだというのです。もし、親や教師が子どもをこのようにしつければ、子どもは決して親や教師に反抗することはしないはずです。



3.たくさんの物が自分を貧しくしている

 
私は定年退職を迎えて、いま毎日、研究室にある本を家に持ち帰っておりますが、その本の多いこと多いこと、よくもここまで買いこんだものだと自分にあきれております。だからもう我が家は本の置き場所がないくらいです。そして一番困るのは、肝心な時に必要な本がなかなか見つからないことです。あまりにもあり過ぎてです。まさに「シンプルに生きる尊さ」とは正反対なんだと思い知らされています。そしてあの、南海・サモア島の酋長の書いた「沢山の物が西欧人を貧しくしている」の文を再び思い出すことでした。

『パパラギ』より

 西欧人は貧しく、その国はみじめだから、馬鹿が枯れ葉を集めて自分の小屋につめ込むように、物をつかんで集める。物がたくさんなければ暮らしていけないのは、貧しいからだ。大いなる心によって造られたものが乏しいからだ。西欧人は貧しい。だから物に憑かれている。物なしにはもう生きてゆけない。西欧人が油を塗った髪をとかすために、亀の甲からその道具を作るとすると、次にその道具を入れるために皮の袋を作る。袋のための小さな箱を作る。小さな箱のためにまた大きな箱を作る。ヨーロッパの料理小屋へ行って見るとよい。およそ使うことのない食べ物皿や、料理道具がいっぱいある。ひとつひとつの食べ物に、ひとつひとつのタノアがある。水を入れるタノアと、酒を入れるももとは別になっている。小屋一軒の中には、実にたくさんの物がある。サモアの村からみんなが集まり、持てるだけ持っても、ひとつの村だけでは運びきれないほどである。別の立派な小屋では、たくさんの白い旦那たちが大勢の男や女を使い、物をかたづけたり砂でみがいたりするほか、何もしないくらいたくさんの物があるのだ。

 だから私はヨーロッパで、邪魔されないで手足を伸ばし、ゆっくりむしろの上に寝られるような小屋に出会ったことがない。すべての物がギラギラ光ったり、色が大声で叫んだりして、目を閉じることさえ出来なかった。本当の安らぎの夜は一度もなく、寝むしろと枕のほかには何もない、海を渡るおだやかな季節風のほか、何も訪れてこないサモアの私の小屋のことを、これほど恋しく思ったことはまだ一度もない。いろいろな物に囲まれている西欧人は、自分のことを貧しいと言って悲しがる。食事の鉢のほかは何も持たなくても、私たちならだれでも、歌を歌って笑顔でいられるのに、西欧人の中にそんな人間はひとりもいない。

 白い世界の人々が私たちの家に来たとしたら、何もないのをひどく悲しがり、急いで森から材木を切り出したり、亀の甲、ガラス、ひも、さまざまな石、その他なんでも集めてきて、サモアの家が大きな物、小さな物で埋まってしまうまで、朝から晩までその手を動かし続けるだろう。物、どれもこれも簡単にこわれてしまい、火事のたび、強い熱帯雨のたびにめちゃめちゃになり、いつも新しく作りなおさねばならない。

 西欧人らしい西欧人ほど、たくさんの物を使う。だから西欧人の手は休むことなく物を作る。それゆえ、西欧人の顔はたいてい、疲れていて悲しそうだ。だからあの大いなる心の造った物を見たり、村の広場で遊んだり、喜びの歌を作って歌ったり、あるいは安息日に日の光の中で踊ったり、私たちすべての人間がそう定められているように、さまざまに身体を動かして楽しもうとするものは、ほとんどいない。彼らは物を作らねばならぬ。毎日毎日、ただただ物のためにのみ動き回り働いているのである。



(文責:小宮路 敏)